青葉若葉の緑に強い太陽、すっかり初夏の気配である。水の入った田で田植えをたのしんだ。
使い捨て時代を考える会をはじめたのは35年昔のことになる。私たちはその当初から、農業の衰退に心を痛めてきた。「使い捨ては美徳」と大量消費型の豊かさに浮かれる世が、未来を忘れ、食の危機に直結するからである。都市消費者も農業の現実に心を寄せ、土に親しみ汗を流す意味を考えてきたのである。
水田を購入し、毎年稲作に取り組んで、今年で30年目である。今年も多くの消費者会員が小さな子ども連れで参加した。泥の感触は素足に心地よい。
かわいらしい小さな苗をていねいに植えていく。縦横一直線になるように植えようとする。素人の不慣れ故にうまくは植えられないが、元気に育ってほしいと願いつつ、一株一株に心を込める。この体験は、いのちの糧である、お米への共感を強めるにちがいない。
そんなのどかな時をにぎやかに楽しみながら、危機的未来への思いが去来した。食卓から米の消える日のことである。米を買いたいと思っても、絶対量の不足と価格の暴騰の打撃の故である。安い輸入穀物によるパン食と肉食、食の洋風化に流されてきた。しかし、穀物の輸入も思うようにならなくなれば大変なことになる。
これは杞憂であろうか。遠い遠い未来のことだろうか。30年前にも同じような心配をしていた。まだ小さかった息子たちを飢えさせる事態を想像し、さまざまな努力を重ねた。幸いに、その息子たちも大人になり、自分は老いた。やはり杞憂だったのだろうか。
今も、同じことを考え、言いつづけているのだから、頑固さを恥ずべきなのだろう。「狼少年の無責任さ」と言われたこともあるが今も頑固である。しかし、きびしい飢えの未来に脅え慌ててはならないとも思う。避ける道、備える方向を手さぐりすることである。
その準備が遅々として進まぬうちにも事態は急展開の気配である。「食糧危機」という言葉がマスコミにも散見されるようになってきた。世界の穀物価格が暴騰しはじめた。人口増に対して、農地と収量生産性が追いつかず、在庫量が危機水準まで落ち込んでいるからである。
異常気象が輸出国農業に打撃を与えたからである。地球温暖便乗のバイオ燃料で自動車が食糧を「食う」。この状況で穀物市場へ投機資金が流入して食糧価格をはね上げたのである。狼の住む森に食糧をあずける危険、いよいよ、その時は近いのだろうか。
30年来のささやかな努力の意味を田植えをしながらふりかえっていた。食糧危機が不可避ならばそれに備えねばならないのである。肉食を減らし、玄米と豆。日本の風土に合致した食生活である。有機農業による食糧自給を目指したいものである。
(『南御堂』より)